奈良さんとヨーロッパ的伝統


 奈良さんは、いい人なのである。これは、困ったことだ。とくに、「ディーヴァ」と呼ばれるような人達の間では、これはほとんどと言っても過言ではない。

「ディーヴァ=歌姫」は、歌の女王様と言ってもよい。その歌の魅力によって周りに群がる人々を、人とも思わず、顎でこき使い、足蹴にし、踏みつけにしなければいけないのである。徹底的なエゴイストで、自分の成功のためには全てを犠牲にしてもいいのである。
 
 でも、奈良さんは、いい人なのである。そういう「ディーヴァ」の特徴を何一つとして(素晴らしい声、以外は)備えていない、どころか、その正反対だ。その歌の魅力によって、もちろん、大勢の人が彼女を賞賛するのだが、それらの人々に気を使い、気持ちよく過ごしてもらおうとする。エゴイストの片鱗だにさえない。日本人の音楽家では、売れるためにエゴイストでなければならないと心得違いしている者が多いようだが(パリで、どれほどそんな人間と出会ったことか!)、奈良さんの態度は、むしろ音楽の存在が日常的に厚い層となっている、ヨーロッパ的な感覚に近いかも知れない。

 昨年10月19日にも、それを実感した。その日は朝からぽつぽつと小雨が降る、薄ら寒い日だった。同志社女子大学の頌啓館(音楽学科)ホールは、土曜日で学生がいないということもあって、おせじにも満席とは言えない状態だったし、彼女自身も風邪ぎみということで、コンディション作りには苦労しておられたようだが、その演奏は素晴らしいものだった。曲目は、ふだん余り演奏されることのないオリヴィエ・メシアンの歌曲で『ハラウィ ー 愛と死の歌』、伴奏はジェイ・ゴットリーブ氏であった。いかなる状況でも最上のものを人々と分かちあおうという、彼女の気持ちがよく伝わってきたのである。

 一ヶ月後、京都芸術センターで、彼女は一人だけの舞台で、シェルジ、ケージなどを歌った「ソロ・ヴォイス」と題するコンサートを行なった。その後、ベリオの『セクエンツァ』について、ヴァッセルマンの演出が余りに「表現的」だという批判が、朝日新聞に出た。つまり、多様な「声の技法」として用いられている、舌打ちや笑いなどの様々な声の使い方が、「化粧をする女性」というイメージ(演出では鏡台の前で彼女が種々のマイムをしながら歌った)のBGMになってしまっているというのである。「音楽」と「音楽外」との間の関係、という大きな美学的問題である。

 しかし、よく考えると、これは「ディーヴァ」で「よい人」である冒頭の矛盾(?)と通底する問題であると言えないこともない。そして、この矛盾を「人間的に」微妙に ? そして、味わい深く ? 解決してきた(解決しないできた、という方が事実に近い)のがヨーロッパの伝統というものであるような気がする。そして、奈良さんは、これを体現している数少ない日本人の一人なのである。

ラ・プレイヤード会報21号より
2003年3月1日発行




 椎名亮輔(同志社女子大学音楽学部助教授)


back number

Copyright Yumi Nara 2003 all rights reserved.