月と夢


 
夢、それは一体何物か。欲望か、野望か、それとも救いか。過ぎ去ったものか、見失ったものか、それとも幻覚か。我々を生へと駆り立てるものか、それとも死へと狂わせるものか。それは月のように静かにしかし挑発的に我々を見下ろし、我々を無情に引き付ける。人は皆、夢に憑かれたピエロ。人生を嘲笑せずに生きていける者などいない。夢を求め、夢を笑い、そして泣く。夢へと伸ばした手は嘲笑によって切り取られるか、我々の首に巻きつくか。それでも人は夢に焦がれずにはいられない。何故か。
私は数年の間、夢について自問することを止めていた。納得のいく答えが見つかったのではなかった。ただ、私は夢というものを諦めたと思い込むと同時に夢の持つ空恐ろしい力から逃れようと夢を忘れ去っていたに過ぎない。しかし私の中のピエロは生き続け、夢に焦がれ続けていたに違いない。そして、月を眺めてみた夜に私は再び夢を思い出した。

 楽しみにしていた演目であったにもかかわらず、奈良さんの「月に憑かれたピエロ」を私は理解できなかった。メシアンの「ハラウィ」が鮮明な印象を私にもたらしたのとは違い、「月に憑かれたピエロ」から私は一体何を受け取ればよかったのか、何を受け取りたかったのかを理解することが出来なかった。ただぼんやりと「何か」が必要だと思っただけだった。そして私は月を眺めてみた。大気を伝って流れるように進む月の輝きの振動を感じたように思った時に、私はふと夢の存在を思い出した。それは私の中で溢れかえり、その時に私は何故私が「月に憑かれたピエロ」の世界に紛れ込むことが出来なかったのかを理解した。私の夢は、私の月は、あまりにも遠くに忘れ去られ、あまりにも乾燥していたのだ。

 奈良さんの音楽がまだ私の中に残っていたのは大いなる幸いで、遅まきながら私は奈良さんの「月に憑かれたピエロ」をじっくりと眺めてみることが出来た。それは驚くという言葉を超えた世界だった。ピエロとしての人間が、黒い眩暈のような苦悩の上に自嘲を重ね、そしてその上にあれほどまでの生への愛着を重ね置くことが出来るとは思ってもみたことさえなかった。そこにある嘲笑と焦がれは淡々としていて、決して脅迫的に迫ってくるものではないにもかかわらず、完璧なる静けさでもって私を圧倒した。それらの絶妙なバランスはなんという美しさでもって私を翻弄しようとしたことか。それは衰退することのない月の光そのものだった。それは生きるということそのものだった。奈良さんの夢は私の夢に絡みつき、干渉し、いつしかその二つの境界線はぼやけてしまい、私は何がしたいのか再び分からなくなった。それで多分良かったのだ、と私は思う。夢は極めて個人的で強烈な存在感を有するにもかかわらず全ての人に共通であり、またあいまいな存在でもあるからだ。そして、はっきりと見ることが出来ないからこそ夢は美しく人を狂わせるのだ。その美しさは、その寂しさは、我々の持ち得るものの中で最上のものではないだろうか。奈良さんの「月に憑かれたピエロ」は私に再びこの上なく美しい重苦しさを与えた。私はそれを恐れながらも、進んで受け取らざるを得なかった。いつか私はその重苦しい夢を奈良さんのように絶妙なるバランスで眺めて人生の中で歌うことが出来るようになるのかもしれないと思うことがある。その時に(そしてそれまでにも)夢を思い出した私として、また奈良さんの「月に憑かれたピエロ」を聞いてみたいと思っている。出来ればパリ郊外の森の中で、そしてあえて月の光の極めて朧な晩に。その時まで私は以下のことを自問し続けようと思う。

 我々一人一人の人生はヴェールに包まれ、人は如何なる時も孤独から完璧に抜け出すことなど出来ようがない。しかしそれでもやはりその人生を取り囲むヴェールの向こうの夢に人は必ず手を伸ばす。それは一体何故なのか。夢とは一体何なのか。

ラ・プレイヤード会報22号より
2003年9月1日発行




 学生(京都大学 理学部)小布施祈織


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