デビューの頃







前号では松平先生についての特別インタビューでした。前々号ではどこまで話が進んでいましたっけ。前々号のプレイヤードありますか?

ゆみ




そんなことではいけませんね。探さなきゃいけない。人生のうち何時間探すことに費やすことか。(ブツブツおっしゃりながら姿を消す。やがて姿を現し)ほら、これ。




はい。恐縮です。そうでした。倉地さんを訪ねたところで終っていましたね。その倉地さんが・・・。

ゆみ





その後しばらくして亡くなられた。あのお墓に入られたのね。古沢先生と同じお墓に。「これが僕の入る所だよ」とおっしゃっていた。名前がまだ刻まれていない小さなプレートがついている。一緒にいた犬はどうしたかな、と思っていたら、稲垣先生の話では近所の人が飼ってあげているんですって。犬はお母さんもお父さんもいなくなってしまって。みんなそう。父や母のない子になっていく・・・。



・・・(しかし気を取り直し)さて今日は・・・。

ゆみ

また昔のこと?



そんな昔のことではないと思いますが・・・。

ゆみ

あの屋根に生えている木は雨にぬれてうれしそう。




話をそらす名人ですね。「鳴くまで待とうほととぎす」でがんばらなくては。最初の演奏活動の頃の話をうかがいたいのです。プロとして最初のコンサートでは何を歌われた?

ゆみ


ラジオ・フランス主催のコンサート。藤井さんの「おままごと」です。フルートは工藤重典さんだったかしら。




藤井さんは、ゆみさんがボルドーを脱出した時に荷物を持って駅まで送ってくれたかの藤井一興さんですね。何年ですか?

ゆみ

フランスに行った次の年、1976年の6月です。



では、まだ学生だったわけだ。失礼ですがギャラの額を覚えていらっしゃる?

ゆみ

300フランだったか500フランだったか。




当時の日本円にして2万円前後ですね。プロフィルを見ますと77年にも藤井さんの曲を歌っていますね。ブーレーズ指揮でコンセルヴァトワールのオーケストラで。

ゆみ



オーケストラ曲の「防人の歌」です。歌は「万葉集」から取られていて、「万葉集」の情景や雰囲気がよく出ているすばらしい曲です。藤井さんは作曲家としてものすごく才能のある人なのに、いまは作曲家の活動をなさっていないのが残念です。



指揮者のブーレーズはどうでした?

ゆみ



当時アメリカから帰っていらしたばかり。にこにこしてあまり何もおっしゃらなかった。音楽の権化のような方。クリアで歌いやすい指揮でした。難しいところも誘われて歌ってしまう。息づくロボットみたいな人。

Q 

え?

ゆみ

ものすごく正確だということ。無駄がなくて。



ほめているのかけなしているのかよくわかりませんが・・・。

ゆみ



そうそう。そのときのコンサートにパスカル・デュサパンが来ていたの。その前にノエミ先生に連れられてブークレーシュリエの所に行って歌を聴いてもらった事があるのだけれど、パスカルはブークレーシュリエから話を聞いてそこに来ていたらしい。




その少し後、78年の5月に吉田進さんの「演歌?」の初演に出ておられる。どんな曲でしょう?

ゆみ











演歌のエッセンスを解剖して組み立てている曲と言ったらいいのかしら。演歌に出てくる言葉(単語)をオケの間でときどき歌う。その言葉の魂を声で表現するという発想は面白いけれどどこか矛盾したものがあるのかな。曲は悪くはないけれど、私としては音楽の流れに乗っていけなかった。自分の中にたまったものが十分に出ていかないので解放感がない。便秘のような曲ノ。この曲は東芝からLPレコードが出たので、叔父がさっそく買いに行ったらしい。ゆみが演歌を歌っていると聞いて。でも似て非なるもの、きっとがっかりしたことでしょう。




その次にアーメド・エッシアードという人の「策略の首輪」という現代オペラに出演なさっていますが、これはどういう作曲家ですか?

ゆみ





これはすばらしい作曲家で、モロッコの人。歌もよかった。私は現代音楽の可能性をこの曲で発見したと言っていいくらい。そう言えばスカラノさん(デュラン社元社長)が、「エッシアードと松平だけがその二人だけが現代において自国の音楽と西欧音楽の融合に成功した」と言っていた。モードによるインプロヴィゼーションがあり動きがある。やっていて楽しかった。ここで初めてフルートの高橋眞知子さんと出会った。




次がジェラール・マッソンの作品の「ウエスト?」。ポンピドゥー・センターでの演奏。おや?指揮者は先年なくなったジウゼッペ・シノーポリですね。

ゆみ




ジェラール・マッソンというのはアル中の作曲家で、自滅したと思ったら、いまは指揮をしています。シノーポリはあんなに有名になるとは思わなかったけれど、指揮はとてもよかった。自分の恋人にピアノを弾かせていたのだけれど、私と二人での特別の練習をしたがるので困りました。だんだん目の色が変わってきて・・・。



78年12月にまた吉田さんの作品を歌っていますね。

ゆみ


「いろはにほへと」絵巻物のような作品で沈黙を歌うというか沈黙を生かす作品。アイディアが面白かった。これは傑作だと思います。

Q 

そしてまた藤井さんの「おままごと」。

ゆみ


このときはカフェ・エドガールという小さな劇場で一週間にわたって歌いました。ああいう場所で現代音楽の夕べが持てるというのはすばらしいこと。



1970年代末に出演された沢山のコンサートの中で一番大きな意味を持ったのは何でしょう?

ゆみ





パスカル・デュサパンの「ルーメン」「イジチュール」「鎖につながれた男」です。アルス・ノヴァ・アンサンブルで、フィリップ・ナオンの指揮。このコンサートが大成功でパスカルはそれまで独学のかけ出し作曲家だったのだけれど、これ以後大舞台で脚光をあびるようになった。それにつられてというか、私の所にもいろんな仕事がくるようになった。あ、あれ見たことはないかしら。[と言って席を立ち<ル・モンド・ド・ラ・ミュージック1980年1月号を持参される]




いいえありません。[と言ってページをめくる]あ、すごい「1980真の実力者」というコーナーの中央に写真が載っているではないですか。横にはミッシェル・ポルタルがいて。

ゆみ

そこではなくて、このページ。



あれ、また大きな写真が載っている。これはインタビュー記事ですね。

ゆみ

裏を見てください。









あ、裏ページにはデュサパンの大きな写真とインタビュー。デュサパンは何と言っているのかな。少し訳してみましょうか。「私はそれぞれの音の放出の中に含まれるエネルギーにいつも注目しています。このエネルギーということを本当に分かってもらえたのはユミ・ナラだけなのです。おそらくそれは彼女が日本人だからでしょう。一種のエロチックな恍惚を生まれながらに身につけていて、それが彼女の歌う一切のものに並外れの力を付与するのです。彼女が私の音楽を奏すると私の表現の一部をそっくり自分のものとして引き受ける。私ができないようなことを彼女はするのです・・・」これはすごい!

ゆみ

こうやって二人で一緒に世に出たということ。



そうですか。現代音楽におけるユミ・ナラの時代の夜明けですね。

ゆみ





現代音楽の作曲家達が次々にやってきて私のために曲を書いてくださった。現代音楽が私を必要としたのでしょう。だから私もそれに答えていった。オペラもやりたいと思ったけれどそういう動きをする余裕はまったくなかった。仕事自体がとてもエキサイティングだったし。作曲家と一緒にものをつくるのだから。生きている作曲家だから手ごたえがある。その場で良し悪しがわかるし。それで、自分の中に眠っていた可能性を発見していったわけ。



ところでこういった演奏会の録音テープは残っているのでしょうか?

ゆみ

残っています。



それはぜひ聴かせて下さい!

[後記]
というわけで「防守の歌」「イジチュール」「ルーメン」「ブラジル風バッハNO5」(ヴィラーロボス)の四曲をテープでかけていただき20数年前のゆみさんの声に聴きひたる至福の時を味わいました。こういうのを役得と申します。悪しからず。       QUIDAM
ラ・プレイヤード会報20号より
2002年9月1日発行



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