コンセルヴァトワールを飛び出して





さあ始めましょう。

ゆみ


ちょっと待って。ようかんの最後の一口。ムニャムニャムニャ、ウーン。






よほどおいしいらしく、うなりまで出ました・・・。さてコンセルヴァトワール時代の声楽の授業に戻りましょう。先生のイレーヌ・ジョアキムに不満でどうしましたか?

ゆみ





クルスという留学生受け入れセンターに相談に行ったらとても親切なマダムがいて、私の不満をよく理解してくれた。そして、コンセルヴァトワールに行かなくても奨学資金が継続する方法を考えてくれたの。一人ものすごくすばらしい先生がいる。とても偉い芸術家だけども危険な人でもある。でも興味があるなら紹介をしましょうと。その名はノエミ・ペルージャ。私は偉い芸術家で危険な人、という言葉に惹かれたよう。



それで会いにゆかれた?

ゆみ



レカミエ座という劇場の地下に彼女はレッスン場を持っていて、そこに会いに行きました。古い家具と錆びた鏡がありビロードをはりめぐらせた雰囲気のある部屋でサラ・ベルナールとかディートリッヒの使っていた楽屋はこんなではないかという気がした。



先生はどんな感じでした?

ゆみ







ノミエはそのときもうかなりのおばあさん。おそるおそる<ユミ・ナラです>と言ったら<なに?>と大きな目で私を眺めた。それはそれは大きな目で、私の心を突き刺すように眺めた。男の人にもあんな目で眺められたことはない。そこでコンセルヴァトワールで何もテクニックを学ばなかった、と事情を話したところ、<何?テクニックですって?テクニックって何なの?>とさらに大きな目をなさった。<何か歌ってごらん>と言われて私はドビュッシーの「放蕩息子」のアリアを歌ったところ、彼女はまたまた突き刺すような目で私を見るのね。でも今度は目の光の中に何というか、喜びのようなもの、同時にいたずらっぽい何かが感じられた。



すぐにそれが感じ取られましたか?

ゆみ




すぐに。それからノエミは私の手を取り、掌を上にしてこんなことを言った。「あなたは生まれたときに与えられたものをすべてここに持っている。それを邪魔されずにすべて表現するのがテクニックです。いますぐはわからないでしょうけど、やがてわかるでしょう、時間はかかるけど。」私はそのとき、運命的な出会いのようなものを感じました。



すごい話ですね、涙が出てくるくらい。見抜いたんですね、その先生は。

ゆみ

私も心を動かされて、この先生についていこうという気になった。



でも、危険な人といのはどういう意味ですか?

ゆみ




ノエミは、私がやってきたことをすべて破壊することから始めた。最初に何と言ったかというと「歌手になってはいけない。歌手である前に一人の女性になりなさい。アニマルになりなさい。」それはもう鳥肌が立つほどすばらしいことだった。どこから歌のエネルギーが出てくるか、走りながら、寝ころびながら、歌の根本を教えて下さった。



それではもうコンセルヴァトワールには行かなくなった?

ゆみ

歌のクラスはもう興味もなくなってしまった。そしたらその年の6月に通知が来て、<登録抹消>。



そのあとは?

ゆみ









そのあと、ノエミの夏期講座がエクス・アン・プロヴァンスで開かれ、それに参加しました。僧院にとまりこんで2週間、みっちりとお稽古。カナダやスエーデンから20人ぐらいの学生が集ってきていた。私はそれまでにできなかった歌い方ができるようになった。たとえばラフマニノフの<ヴォカリーズ>は難しい歌だけどノエミの方法で歌うと魂がそのまま声になってほとばしり出るような歌になって人に伝わっていくの。そうそう、アメリカの牧場の娘というのが来ていて、<夜の女王>のアリアを歌うのだけど不安定だった。それでノエミに「お乳をしぼる動作をしながら歌ってごらん」と言われて、そうして歌ったら見事なヴォカリーズになったのを覚えてる。彼女はすぐその足でウイーンのオペラ座に行って<夜の女王>の仕事をもらうことになったのよ。いまオペラで活躍しているカナダのドンナ・ブラウンもそのときの生徒。彼女は蚊の鳴くような声しか出なかったのに大きく成長した。

Q 

何か辛いことはなかったですか?

ゆみ




ノエミのやり方は一枚一枚皮をはぎとっていくやり方。テクニックをつけるというのではなく破壊していく。それに耐えられない人はやめていった。あと、性格がきついというか悪いというか。こちらの性格まで問題にして「これがなぜできないか」と攻めてくるところがあった。よく泣かされました。



すべてクラシックの歌ですか?

ゆみ


クラシックの唱法だけでなく、あらゆる声のヴァリエーションを発見させてくれた。そして私は現代音楽の声を発見することで自分を見いだしたの。



エクスでの日課は?

ゆみ



昼のあいだはレッスンで、夜はエクスのフェスティヴァルがあったからコンサートに。尼さんのような生活でした。



どなたか通ってきた人は?

ゆみ

ハッハッハ。


そこで夏が終わり2年目の秋をむかえるわけですが、ずっとノエミのもとでのレッスンを続けられた?

ゆみ




ノエミのレッスンを続けるかたわら、少しずつ仕事をするようになりました。メシアンの曲をラジオで歌ったり、留学仲間のコンサートでドビュッシーやフォーレを歌ったり。それから藤井一興さんが私のために作曲した<おままごと>という歌をカフェ・エドゥガールで一週間歌ったこともある。その時のフルートが工藤重典さん。



奨学資金は結局3年間出たわけですね。

ゆみ


そう。その間のノミエへの授業料はクルスで出してくれたのですが、そのあとは自分でレッスン代を払っていました。でも、こっちの先生はよくあることだけど、お月謝をときどき免除して下さるのね。



ノエミに愛されていると思いましたか?

ゆみ


そうね。色々な作曲家を紹介して下さったり、彼女の思うように歌うと涙ぐんで抱きしめて下さいました。

Q 

ゆみさんがだんだんと世の中に出てゆくようになったとき、彼女の方に嫉妬の気持ちは?

ゆみ







世の中に出てゆくことは喜んで下さいました。ただどんなに重要なコンサートでも終わると、皆のいる前でどこが良かった悪かったとお説教をされました。それからあるときクセナキスを紹介しなかったと言って怒って出ていったことがあった。私は二人が知り合いだとばかり思っていたのですが。ある意味ではとても可愛い人。有名なバリトンのガブリエル・バッキエも生徒の一人だったけど、コンサートが終わったあとやはりファンが沢山いるところで欠点を指摘され、スターが生徒に戻って首をすくめていたのを覚えている。それからいろいろな言葉を思い出すわ。「愛が一番すばらしいこと、愛があればどんな形でも美しい」とか「沈黙の中にすべてがある。命がある。」とか。



お付き合いはいつ頃まで?

ゆみ




彼女が引退を考え始めた87年ぐらいまで。でも私はその前にすこし遠ざかっていました。いつまでも依存していてはダメだと思い、決心して他の先生にも習い始めました。でもノエミのことはこんなインタビューではとても言いつくせない!今回出たフォーレのCDは、フォーレ歌手として有名だったノエミへのオマージュの気持ちを込めてるの。




いつかぜひ自伝を書いていただきましょう。ところで7月28日にラ・グラーヴのメシアン・フェスティヴァルで歌われ、大変好評だったそうですが。

ゆみ



こんな山の中のフェスティヴァルにと思うくらい聴衆が集まって、みんな温かくて情熱的で。日本からも稲垣さん御夫妻が来て下さったし、パリからもリヨンからも日本人のお友達が来て下さったし、イマジネーションがわいてアニマルになって歌えたという感じでした。



ラ・グラーヴという村は?

ゆみ



その前にマルセーユで歌ったときは教会の扉をあけると海が正面に広がっていた。ラ・グラーヴの教会は目の前に3500メートルのメイジュ山の氷河がせまってすばらしかった。お墓も高山植物が風にゆれて、月に照らされて。



2年後にもまた出演を依頼されたそうですが。

ゆみ

今度は<ハラウィ>を歌って下さいとのことでした。




これは<プレイヤード>でツアーで押しかけなくては!ところで、その帰りに古沢淑子さんのお墓参りをされたとか。

ゆみ

はい。スイスとの国境の近く、エヴィールという村のお墓です。



どのようなお付き合いでしたか?

ゆみ



私がフランス政府の留学生試験を受けたときの審査員で、フランスに来る前に2、3回レッスンを受けたことがあります。フランスに来てからは一度、エヴィールに移られる前のスイスにあったお家に遊びに行って泊めていただいたことがあります。



どういう感じの方でしたか?

ゆみ



すこし年をとられた、神秘的で美しい人。お手製の長いワンピースを着てむかえて下さった。白いロールケーキと黒いロールケーキをを作ってくださったり、「隣のトウモロコシの赤ちゃん、盗みましょう」と言って私の手をとって盗みに行ったり。



音楽の話は?

ゆみ


あまりしませんでした。そのかわりハンガーにお花の絵をかいたり、家具に絵をかいたり、朝の六時から!田舎の生活を楽しんでおられました。



こちらでお会いになったのは一度だけ?

ゆみ






その後5年たってもう一度今度はエヴィールを訪れました。そのときは洋服に昔からの古模様をかいておられた。音楽からはかなり離れておられたのか、「こんなの聞く気しないから」と言われて、テレサ・シュトラタスの<トラヴィアータ>のレコードを下さろうともした。先生はすばらしいアーティストとしての生活を夢の玉手箱の中にしまわれたのかもしれない。その後私はあまりお邪魔しない方がいいかな、と思ったのね。先生の新しい生活の中に足を踏み入れることに気おくれがして失礼してしまいました。



お墓の感じは?

ゆみ


太陽がさんさんと照る墓地で、大理石の立派な長方形のお墓の上にKURACHI Yoshiko nee FURUSAWA cantatrice〔声楽家〕(1916−2001)と書いてありました。



御主人の倉知さんにもお目にかかられた?

ゆみ



ええ。美しい年老いたダンディーという印象でした。古沢先生をみとり、一区切りがつき彼女の人生は終ったけれど、これからは自分の余生をまっとうしなくては、という感じで、たんたんとして、思っていた以上に晴れやかになさっていらした。私はもっとセンチメンタルなのですが・・・。

ラ・プレイヤード会報18号より
2001年10月1日発行




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