Q
|
そこで夏が終わり2年目の秋をむかえるわけですが、ずっとノエミのもとでのレッスンを続けられた?
|
ゆみ
|
ノエミのレッスンを続けるかたわら、少しずつ仕事をするようになりました。メシアンの曲をラジオで歌ったり、留学仲間のコンサートでドビュッシーやフォーレを歌ったり。それから藤井一興さんが私のために作曲した<おままごと>という歌をカフェ・エドゥガールで一週間歌ったこともある。その時のフルートが工藤重典さん。
|
Q
|
奨学資金は結局3年間出たわけですね。
|
ゆみ
|
そう。その間のノミエへの授業料はクルスで出してくれたのですが、そのあとは自分でレッスン代を払っていました。でも、こっちの先生はよくあることだけど、お月謝をときどき免除して下さるのね。
|
Q
|
ノエミに愛されていると思いましたか?
|
ゆみ
|
そうね。色々な作曲家を紹介して下さったり、彼女の思うように歌うと涙ぐんで抱きしめて下さいました。
|
Q
|
ゆみさんがだんだんと世の中に出てゆくようになったとき、彼女の方に嫉妬の気持ちは?
|
ゆみ
|
世の中に出てゆくことは喜んで下さいました。ただどんなに重要なコンサートでも終わると、皆のいる前でどこが良かった悪かったとお説教をされました。それからあるときクセナキスを紹介しなかったと言って怒って出ていったことがあった。私は二人が知り合いだとばかり思っていたのですが。ある意味ではとても可愛い人。有名なバリトンのガブリエル・バッキエも生徒の一人だったけど、コンサートが終わったあとやはりファンが沢山いるところで欠点を指摘され、スターが生徒に戻って首をすくめていたのを覚えている。それからいろいろな言葉を思い出すわ。「愛が一番すばらしいこと、愛があればどんな形でも美しい」とか「沈黙の中にすべてがある。命がある。」とか。
|
Q
|
お付き合いはいつ頃まで?
|
ゆみ
|
彼女が引退を考え始めた87年ぐらいまで。でも私はその前にすこし遠ざかっていました。いつまでも依存していてはダメだと思い、決心して他の先生にも習い始めました。でもノエミのことはこんなインタビューではとても言いつくせない!今回出たフォーレのCDは、フォーレ歌手として有名だったノエミへのオマージュの気持ちを込めてるの。
|
Q
|
いつかぜひ自伝を書いていただきましょう。ところで7月28日にラ・グラーヴのメシアン・フェスティヴァルで歌われ、大変好評だったそうですが。
|
ゆみ
|
こんな山の中のフェスティヴァルにと思うくらい聴衆が集まって、みんな温かくて情熱的で。日本からも稲垣さん御夫妻が来て下さったし、パリからもリヨンからも日本人のお友達が来て下さったし、イマジネーションがわいてアニマルになって歌えたという感じでした。
|
Q
|
ラ・グラーヴという村は?
|
ゆみ
|
その前にマルセーユで歌ったときは教会の扉をあけると海が正面に広がっていた。ラ・グラーヴの教会は目の前に3500メートルのメイジュ山の氷河がせまってすばらしかった。お墓も高山植物が風にゆれて、月に照らされて。
|
Q
|
2年後にもまた出演を依頼されたそうですが。
|
ゆみ
|
今度は<ハラウィ>を歌って下さいとのことでした。
|
Q
|
これは<プレイヤード>でツアーで押しかけなくては!ところで、その帰りに古沢淑子さんのお墓参りをされたとか。
|
ゆみ
|
はい。スイスとの国境の近く、エヴィールという村のお墓です。
|
Q
|
どのようなお付き合いでしたか?
|
ゆみ
|
私がフランス政府の留学生試験を受けたときの審査員で、フランスに来る前に2、3回レッスンを受けたことがあります。フランスに来てからは一度、エヴィールに移られる前のスイスにあったお家に遊びに行って泊めていただいたことがあります。
|
Q
|
どういう感じの方でしたか?
|
ゆみ
|
すこし年をとられた、神秘的で美しい人。お手製の長いワンピースを着てむかえて下さった。白いロールケーキと黒いロールケーキをを作ってくださったり、「隣のトウモロコシの赤ちゃん、盗みましょう」と言って私の手をとって盗みに行ったり。
|
Q
|
音楽の話は?
|
ゆみ
|
あまりしませんでした。そのかわりハンガーにお花の絵をかいたり、家具に絵をかいたり、朝の六時から!田舎の生活を楽しんでおられました。
|
Q
|
こちらでお会いになったのは一度だけ?
|
ゆみ
|
その後5年たってもう一度今度はエヴィールを訪れました。そのときは洋服に昔からの古模様をかいておられた。音楽からはかなり離れておられたのか、「こんなの聞く気しないから」と言われて、テレサ・シュトラタスの<トラヴィアータ>のレコードを下さろうともした。先生はすばらしいアーティストとしての生活を夢の玉手箱の中にしまわれたのかもしれない。その後私はあまりお邪魔しない方がいいかな、と思ったのね。先生の新しい生活の中に足を踏み入れることに気おくれがして失礼してしまいました。
|
Q
|
お墓の感じは?
|
ゆみ
|
太陽がさんさんと照る墓地で、大理石の立派な長方形のお墓の上にKURACHI Yoshiko nee FURUSAWA cantatrice〔声楽家〕(1916−2001)と書いてありました。
|
Q
|
御主人の倉知さんにもお目にかかられた?
|
ゆみ
|
ええ。美しい年老いたダンディーという印象でした。古沢先生をみとり、一区切りがつき彼女の人生は終ったけれど、これからは自分の余生をまっとうしなくては、という感じで、たんたんとして、思っていた以上に晴れやかになさっていらした。私はもっとセンチメンタルなのですが・・・。
|
|
ラ・プレイヤード会報18号より
2001年10月1日発行
|